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ゆえに、しばしば若者には意味不明な言葉や、見たこともないモノが登場します。 とくに説明などいたしませんので、そのつもりでお読みください。 |
そこにスペースシャトルを着地させる。 そんな気宇壮大な夢を実現させるために、ソーラーカー・ラリーを開催しなが ら若きエンジニアを育てている男がいる。 本業は美容師。 彼はまた、ヘアカットの腕一本で大冒険を成就せしめる、 「痛快な大人の少年」でもあった。 ラピタ世代には、八郎潟の干拓地といえば通りが良いかもしれぬ。 見渡す限り、田んぼ。その面積は、東京・山の手線内のざっと3倍もある。 その広大な干拓農地のド真ん中を、舗装路が一直線に切り裂いている。 「ソ−ラ−・スポ−ツ・ライン」 幅15m、片道2車線、往復31kmのソーラーカー・ラリー専用コースである。 その勝手な大計画の言い出しっぺが、秋田市内で美容院を営んでいた山本久博である。
大潟村では、約600所帯が所帯あたり15haの耕地を持つ。水利、日照の条件差は皆無に近い。 山本がまず考えたのは、ここに全長18kmの滑走路を作って、スペースシャトルに降りてきてもらうことだった。 「日本の滑走路は、せいぜい4km。スペースシャトルの降りるエドワード空軍基地の滑走路は20kmもあるんです。国内でそんなに長い滑走路を作れる場所は、大潟村をおいて他にない。じゃ、緊急避難用滑走路を作っちゃおう。当時は、宇宙開発たけなわの時代で、日本でもミニ・スペースシャトル、スペースプレーン計画などが声高に語られていました。ゆくゆくは大潟村に一大宇宙開発研究センターを作ろうと夢見たわけです」 このとき山本の提出したプラン「コスモ・プロジェクトin秋田」は、審査会で全会一致の最高評価を得たが、あまりにも気宇壮大だったので次点となった。しかし若干の調査費が出た。県が表には立てないが、民間ベースで予備調査を進めてほしい・・・という。
さっそく山本たちは、秋田宇宙開発会議なる組織を立ち上げ、宇宙開発事業団など関係諸機関に実現可能性の打診をはじめる。しかし、すぐに壁に突き当たった。 「誰も大潟村を知らないんです。まず、村を知ってもらうこと、村に来てもらうことから始めなくちゃいけない。そこで、理工系の学生たちが夢中になるイベントとして、ソーラーカー・ラリーを計画しました。彼らこそ、将来の宇宙開発を担う金の卵たちだからです」 こうして、第一回「ワ−ルド・ソ−ラ−カ−・ラリ−in秋田」が1993年8月に開かれた。 村内の広域農道35kmを閉鎖して丸々3日間の開催である。山本は競技委員長として奮闘し、大会は大好評のうちに閉幕した。後で調べてみると、最大の魅力は、国内ではまね出来ぬコースの長さらしい。 宮田は二つ返事でOKした。 |
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