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タダでは起きない才能は、
ロシアの美容の女神をも微笑ました

50歳を過ぎての困難な冒険は、ヘアカットの腕で一気に好転


山本の美容室「モードスタジオQ」は、ソーラーカー・チームを持っている。綺麗どころの美容師さんたちを揃えた、おそらく世界で最も華麗なチームである。
しかも、強い。1999年の第5回WSC(豪州縦断3000km)では、堂々プライベート・クラス準優勝に輝いた。マシンの名は「ジョナサン」。山本の好きな小説「かもめのジョナサン」から拝借した。支店の庭先でスタッフ総出で手作りした名車である。

2001年の初夏、「ジョナサン」はユーラシア大陸横断という快挙を成し遂げた。ウラジオストクからペテルブルグまで約1万1千kmをひと月かけて旅したのだ。

「当初は、シルクロードを走ってみたかった。でもル−ト上の国々が複雑な内情を抱えていて、埒が明きそうにない。シベリア横断なら、ロシア一国を口説き落とせば、ヨーロッパまで行ける。そう考えて2001年の2月にモスクワに乗り込んでみたんです」
ところが、交渉は意外に難航する。政府筋の正式なお墨付きがどうしても取れない。帰国日まであと2日となって、ついに諦めた。
しかし、美容の女神が微笑む。


「最後に、せっかくだから美容室を見たいと思って、ある店を見学させてもらったんです。オーナーの女性に、名刺代わりに持参したヘアカットの英文冊子をあげると、彼女、めざとく僕がビダルサッスーンコンテスト入賞者であることを発見して、即席の講習会を開いてくれと頼んできたんです」

そうこうするうちに、どこで聞きつけたのか、TV局の女性レポーターが現れて、取材中に自分の髪もカットしてくれ、という。
TV「どうしてモスクワに?」
山本「ソーラーカーでシベリア横断する準備のためなんです」
TV「まあ、大変なご計画を!」
山本「走ること自体は、それほど困難じゃない。頑張れば何とかなると思う。それよりロシア政府が許可してくれないことには、頑張ることすらできないんですよ」

この取材は、その日のうちにオンエアーされて、ロシア政府の交通関係VIPの目にとまった。山本は出発の日の午前中に呼び出され、「素晴らしいことだから是非実現してほしい」と激励されて、関係諸機関向けの特別通行許可証を発行してもらえたのである。

「この通行許可証は、さながら水戸黄門のの印篭でした。この通行証を見せると、各地域の警察車がパトライトを点滅させて、赤信号も止まらずに先導してくれる。この先導体制は、ペテルブルグまで一貫して続きました」


こうして、かつて「さらばモスクワ愚連隊」に憧れて海外を目指した青年は、50歳を超えて再び、ヘアカットの腕一本で大冒険を軽々と成就させたのである。


 

実は、僕が初めて山本に会ったのは、1993年のアデレードだった。そのとき、僕は「ビーパル号」で第3回WSCのゴールに入り、山本は秋田大会(WSR)実行委員として視察にきていた。
以来、はや10年が過ぎた。
バブル崩壊、平成不況、自然エネルギー関連業界の低迷、NASAチャレンジャ−爆発事故・・・。
この間、山本の夢をめぐる諸状況は、とても恵まれていたとはいいにくい。少なくとも僕のソーラー熱はバブルとともに破綻した。
しかし、この向かい風の中で、山本は大潟村ソーラースポーツラインを切り盛りし、新しい目標を見つけ出して、若きエンジニアを育てている。そして激務の合間を縫って、贅沢な冒険旅行までやってのけてしまうのである。
そのパワーのよって来るゆえんとは、いったい何だろうか。
「根が単純なんですよ、なにせ野球部出身だから・・・」
と謙遜するが、山Qを山Qたらしめる最たるものは、おそらく彼の「大志」だと僕は思っている。
クラーク博士の言を引くまでもなく、大志こそ、凡俗にまみれた大人を少年に戻し、そして軽々と痛快事を成就せしめる。山本久博こそ、元祖大人の少年である。

文・高橋団吉

1955年生まれ。趣味:シニアサッカー
編集制作プロダクションDECO代表。
著書に「新幹線をつくった男 島秀雄物語」等。

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